南国食堂 地球屋

アジア料理と沖縄料理

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2018.12.16 Sunday

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2008.07.01 Tuesday

台湾 蘭嶼島で野豚をいただく

僕が、台湾の南東に浮かぶ蘭嶼島(らんゆうとう)を初めて訪れたのは、もう15年ほど前の事。この島は台湾先住民族ヤミ族が暮らす島で、その頃は、年配の方などはまだ伝統衣装の褌姿に裸足でのんびりと暮らしていた。

これと言った目的があるわけでもない気ままな旅だったが、出逢った人のおうちで泊めてもらいながら周囲40キロほどの島をてくてく歩いた。

何もない海沿いの道を歩いていたら、にわか雨が振り出した。
傘も持たないし、どうしようかとぼんやり考えていたら後ろからクラクションが鳴り、
荷台にがきんちょが満載のトラックが僕も横で止まった。

「乗りなさい。」とくわえタバコの運転手のおっちゃん。

ここの島では、歩いている人を乗せるのは当然で、乗せてもらう人もそれが当然。

荷台によじ登り、がきんちょとぎゃーぎゃー叫びながらずぶ濡れドライブ。
しばらく走り、着いたのは野銀村(イラギヌ村)の小さな小店屋さんの前。

しばらく子どもたちにその辺を案内してもらい、
ひとしきり遊んだ後、また、バス停の小店屋さんにもどり、
缶ビールを買い、軒下で煙草を吸いながら、さて、どうしようかと
雨宿り。

褌のじいちゃんがひょこひょこと現れ、
「日本人か?」と聞いてきた。

(日本植民地時代の影響で、年配の方々はほぼ問題ない日本語で話しかけてくる。
聞いた話では、その当時、言葉がそれぞれ違う台湾先住民族の人々は、違う民族の人と会話する時、日本語を共通語としていたそうだ。)

「私は東京で仕事してたよ。♪ゆ~らくちょー で あいましょ~♪」
なんとなく聴いたことがあるムード歌謡をご機嫌で歌うじいちゃん。

どうやら、もうすっかりいい塩梅だ。

「しぇんしぇえ~。私の家に来なさい。」と誘ってくれたが、
小店屋のあんちゃんが「じーさん、もうあんた酔っとんやからやめとき~」
みたいな小言を言ったものだから、暫し、二人の島の言葉のやり取りを
ぼけーっとして聞いていた。

結局、僕はじいちゃんにこのお店でお酒を買わされ、
じいちゃんちにお世話になる事になった。

じいちゃんちは、ヤミ族の伝統的な住居で、
台風対策の為の石垣の内側に、半地下の竪穴式の母屋と狭い寝室、そして縁台の三つの建物からなっている。

縁台は石垣より高くなっており、島の人々の憩いの場である。
そこで、買ってきた島酒を生地で呑んだ。
「米酒」と書かれた赤いラベルの茶色い瓶のそれは、
泡盛の親戚のような麹臭い酒で、たしか20度くらい。
こっちで言う、三楽とか大五郎みたいな一番安い大衆酒みたいなものだ。

何度も繰り返される調子っぱずれの「♪ゆ~らくちょー で あいましょ~♪」に
ゲンナリしながらも、あれこれ話を聞いた。そんな気がする。

日が暮れ、蚊が多くなったので、寝室の建物に移動。
ここは天井が低く、本当にうなぎの寝床のよう。

ろうそくの灯りで、晩御飯をいただく。蒸したタロイモ(里芋の親玉みたいなもの)、煮た魚、その煮汁がその夜のメニュー。
調味料は塩だけ。

昔から、こういう食事なんだろうなぁ。
まずくはないのだが、食べろ食べろと勧められたジャガイモ4個分以上の巨大タロイモで胸焼けをおこしそうになった。

食事を終え、部屋に干してある真っ黒でカチカチの何かの干し肉をくちゃくちゃひたすら噛みながら、再び酒盛り。

じいちゃんがコップの酒を倒し、ろうそくが消えてしまった。
真っ暗だ・・・。

「台湾政府からいいものをもらった。」と、じいちゃんは母屋で何やらごぞごぞ。
大事そうに胸に抱いた細長いダンボール箱の中は、簡易式の蛍光灯。
二人でコンセントを探し、母屋から延長コードを引っ張り
点灯。

ぶーん、ちかちかっと蛍光灯に灯りが灯った。
「どうだ、凄いだろう!」と満足げなじいちゃんの笑顔。

なぜか、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

せっかくの出番を迎えた蛍光灯は、
「もったいないから」との理由でまたダンボール箱にしまわれ、
またろうそくのおぼつかない灯りになった。

波音が聴こえる。聴こえるのは、波音とじいちゃんの歌声だけ。

その夜、じいちゃんと並んで寝たのだが、
蚊の多さとじいちゃんのいびきのでかさであまりよく寝付けなかった。


翌朝、「ついてきなさい」と言うじいちゃんの後に続き近所のお宅にお邪魔すると、
漁で赤銅色に焼けた引き締まった男達が2~30人。
なぜかみんな無口で、二日酔いのぼんやりした頭でも、
何かただ事ではない事が始まるのではないかと言う事は判った。

黒い豚が連れてこられた。
この島では、豚は放し飼いで、日中はそこら辺で残飯をフゴフゴあさり、
夜になると自分の寝床のある柵の中に帰ってゆく。
そんな感じで、豚はありふれた日常風景なのだが、
この豚は違うようだった。

男三人にひっくり返され、一人の男がナイフを豚の首元に差込んだ。
豚はピギーッ!と絶叫し、しばし痙攣し、息絶えた。

真っ赤な鮮血は、大きなたらいに溜められたあと、
すぐに加熱調理の為に母屋に運ばれていった。

僕が覚えているのはそこくらいまでで、
後は、いきなりのショックでよく覚えていない。

ものの20分ほどであろうか?
気付けば、さっきの豚はもうすっかり原型は留めておらず、
小分けされた豚肉が、その場にいる人間の数だけ用意されたタロイモの葉っぱの上に置かれていた。

あっちが多い、こっちが少ないと言いながら
豚肉は均等に分けられ、そしてその集まりは終了した。

夢をみているのだろうか?
だが、僕の手にはタロイモの葉っぱを通して、豚肉のホカホカの体温が伝わっている。

じいちゃんちにもどり、朝ごはん。
タロイモと、魚の煮汁と、さっきの豚の生肉。
調味料は塩だけ。

一瞬躊躇したが、まだ温かさの残る豚肉に塩を付け、喰らいついた。
味はよく覚えていない。ただ、もの凄く筋が固くて顎が痛くなるまで噛んでも噛んでも
噛み切れなかった事はよく覚えている。

一生に一度あるかどうかの貴重な体験は、あまりに衝撃的だった。
生ぬるい暮らしに生きる現代人の僕にとって。


食事を終え、じいちゃんは残った生肉を柱にぶら下げた。
昨日の干し肉はこれだったのか。


縁台でぼんやりとしていると、じいちゃんの息子らしき人が来て、
しばらくじいちゃんと口論したあと、よく意味が分からぬまま
僕はその人のおうちに連れていかれた。

じいちゃんちとは違い、その人のおうちは鉄筋コンクリートのお家で、
電気が煌々と照り、エアコンも快適だった。

騒がしいテレビから目をそらし、窓の外の暗い夜をぼんやり眺めた。
この暗闇の向こう、じいちゃんは、一人で酒を呑んでいるのだろう。

誰が誰なのかさっぱりわからないが、男の人たちが喧々諤々と口論している。
説明してもらうと、この島に原発の核廃棄物処理場が勝手に建設されたそうで、
その賛否をみんなで議論しているようだった。

翌日、海岸沿いにあるその処理場まで連れて行ってもらった。
この島には不釣合いな大きな塀に囲まれたそこは、
気味悪いくらい静かだった。

彼らにじいちゃんちまで送ってもらい、じいちゃんにお別れをしたあと、
飛行機で島を離れた。



後日談。
それから10年ぶりに再び訪れた蘭嶼島は、すっかり様変わりし、
観光客のリゾート地みたいになっていた。

処理場賛成派の人たちは、保証金か何かと現金収入の仕事が入ったのだろう。
島で最初にお世話になった人の小さなおうちはもう無くて、代わりに、
立派な鉄筋コンクリートのおうちで暮らしていた。

その傍らで、昔ながらの小さなおうちで暮らす人もいて、
僕のお世話になっている人とはなんだかよそよそしかった。
以前は一緒にビンロウを噛みながら、縁台でのんびりしていたのに。

処理場が稼動した事により、明らかに、島の、集落のコミュニティーが分断されたように思えた。

子ども達は、島の言葉も理解できるはするが、日常会話は中国語だった。
こうやって、島の言葉や文化もやがて失われていくのかもしれない。
よそ者の、先進国と言われる国の僕が、この島の現状をとやかく言う資格など何もない。
ただ、この10年間の島の変化は、悲しかった。


あのじいちゃんを訪ねに野銀村に行ったのだが、
集落には人気が無く、じいちゃんとの再開は果たせなかった。

元気に酒を呑んでいればいいのだけど。
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