2017.05.14 Sunday
母の背中の思い出
僕の母は、結婚して専業主婦となり、
家を守り僕と妹を育ててくれた。
だから、僕の記憶の中の母はいつも台所に居て、 毎朝食事の準備の音と朝餉の香りで目が覚めていたように思う。
食いしん坊で、いつも腹を空かせていたわんぱく坊主だったので、 家に帰ると「今日おやつ何ー!?」というのが口癖で 子どもが好きそうなスナック菓子じゃないのがちょっとだけ不満ではあったけれど いつも何かしらの手作りおやつで、 「おきっちゃんちはいつもなんか作ってくれてええのぉ」と 友達から言われても「そうなんかのぉ?」と思っていた。
今思えば、身体の事を気遣ってくれたのもあるし、 何より倹約の為の手作りだったんだろうなぁ。
父曰く、「結婚した頃は料理は下手だった」らしい。
色々と勉強して、何度も工夫をしたんだろうなぁ。
口厳しく、典型的亭主関白な父は 仕事から帰宅すると一番風呂に入り 座椅子に座ると絶対一歩も動かず、 「おい、醤油!」「おい、あれ!」と母に指図してるのがなんか嫌で、 ゆっくり食事する暇も無い母が気の毒に思えて 自然と僕が先に動いて取りにいったりするようになった。
今は、家族を支える為、営業職として働きまくっていた父の 家庭内絶対存在感というのもよくわかるし、 心から尊敬している。
酢の物が好きな父の為に、必ず酢の物は一品あったし 父の晩酌の為に一品子どもたちよりおかずが多かった。
父が帰宅するまでは基本僕らも夕食を待ち、 8時を過ぎる連絡がある場合は僕らだけ先に食べて 母は父の帰宅までずっと待っていた。
そんなわけだから、父の帰宅まで台所の母の側で 味見を目当てにうろちょろ料理を見学していたし、 7時過ぎに玄関のチャイムが「ピンポンピンポン!」と鳴らされて 帰宅の合図が鳴ると玄関までお迎えに走ったのも、 「ご飯が食べれる!」という無邪気な喜びだったんだろうなぁと ふと振り返る。
ちなみに、年に何度かチャイムが「ピンポンピンポンピンポンピンポン!!!」と 激しく連打される時は、ケーキのお土産がある時で 猛ダッシュでお迎えに行った。
多分、大きな契約が取れた時だったんだろう。
今みたいに、コンビニやスイーツという存在も無く、 ケーキというものはお誕生日とクリスマスにしかお目にかかれなかった 昭和50年代の話。
1歳になった娘知世子も、僕に似て食いしん坊で 「まんま、まんま!」が口癖。
僕が土間の厨房で料理をしていると、これまでは引き戸の隙間から僕を見ていたが 厨房のレイアウトを変えてからは食器棚が捕まり立ちの良い高さになったので、 頭をひょこっと出してこちらを見ながら「まんま、まんま!」と叫んでいる。
負ぶって作業している時は、肩越しに僕の手元を観察しているので、 「これは人参さん。こうやって切るよ。」なんて解説したりするのも ささやかな幸せを感じる。
やがて自分で歩けるようになったら、「よいしょ!」って言いながら土間に降りてきて 足元でうろちょろするんだろうなぁと想像し、幼き頃の自分と知世子を重ねたりする。
今から40年以上前の時代とは、食事環境も内容も随分変化してしまったけれど、 母から受け継いだ食事の意味や、父から躾けられた作法は ちゃんと知世子にも伝えていけるよう まずもって自分自身がちゃんとしなくてはと思う今日この頃。
今日は母の日。
いつもありがとう。おかあさん。
だから、僕の記憶の中の母はいつも台所に居て、 毎朝食事の準備の音と朝餉の香りで目が覚めていたように思う。
食いしん坊で、いつも腹を空かせていたわんぱく坊主だったので、 家に帰ると「今日おやつ何ー!?」というのが口癖で 子どもが好きそうなスナック菓子じゃないのがちょっとだけ不満ではあったけれど いつも何かしらの手作りおやつで、 「おきっちゃんちはいつもなんか作ってくれてええのぉ」と 友達から言われても「そうなんかのぉ?」と思っていた。
今思えば、身体の事を気遣ってくれたのもあるし、 何より倹約の為の手作りだったんだろうなぁ。
父曰く、「結婚した頃は料理は下手だった」らしい。
色々と勉強して、何度も工夫をしたんだろうなぁ。
口厳しく、典型的亭主関白な父は 仕事から帰宅すると一番風呂に入り 座椅子に座ると絶対一歩も動かず、 「おい、醤油!」「おい、あれ!」と母に指図してるのがなんか嫌で、 ゆっくり食事する暇も無い母が気の毒に思えて 自然と僕が先に動いて取りにいったりするようになった。
今は、家族を支える為、営業職として働きまくっていた父の 家庭内絶対存在感というのもよくわかるし、 心から尊敬している。
酢の物が好きな父の為に、必ず酢の物は一品あったし 父の晩酌の為に一品子どもたちよりおかずが多かった。
父が帰宅するまでは基本僕らも夕食を待ち、 8時を過ぎる連絡がある場合は僕らだけ先に食べて 母は父の帰宅までずっと待っていた。
そんなわけだから、父の帰宅まで台所の母の側で 味見を目当てにうろちょろ料理を見学していたし、 7時過ぎに玄関のチャイムが「ピンポンピンポン!」と鳴らされて 帰宅の合図が鳴ると玄関までお迎えに走ったのも、 「ご飯が食べれる!」という無邪気な喜びだったんだろうなぁと ふと振り返る。
ちなみに、年に何度かチャイムが「ピンポンピンポンピンポンピンポン!!!」と 激しく連打される時は、ケーキのお土産がある時で 猛ダッシュでお迎えに行った。
多分、大きな契約が取れた時だったんだろう。
今みたいに、コンビニやスイーツという存在も無く、 ケーキというものはお誕生日とクリスマスにしかお目にかかれなかった 昭和50年代の話。
1歳になった娘知世子も、僕に似て食いしん坊で 「まんま、まんま!」が口癖。
僕が土間の厨房で料理をしていると、これまでは引き戸の隙間から僕を見ていたが 厨房のレイアウトを変えてからは食器棚が捕まり立ちの良い高さになったので、 頭をひょこっと出してこちらを見ながら「まんま、まんま!」と叫んでいる。
負ぶって作業している時は、肩越しに僕の手元を観察しているので、 「これは人参さん。こうやって切るよ。」なんて解説したりするのも ささやかな幸せを感じる。
やがて自分で歩けるようになったら、「よいしょ!」って言いながら土間に降りてきて 足元でうろちょろするんだろうなぁと想像し、幼き頃の自分と知世子を重ねたりする。
今から40年以上前の時代とは、食事環境も内容も随分変化してしまったけれど、 母から受け継いだ食事の意味や、父から躾けられた作法は ちゃんと知世子にも伝えていけるよう まずもって自分自身がちゃんとしなくてはと思う今日この頃。
今日は母の日。
いつもありがとう。おかあさん。
2017.05.04 Thursday
本とわたし
母が本好きで、物心ついた頃から毎晩絵本を読んでもらうのが
子どもの頃の就寝前の楽しい思い出。
自分で本が読めるようになったら、図書室の本を片っ端から読み漁り、
高校生になると大槻ケンヂの影響で筒井康隆、江戸川乱歩などに傾倒し
古本屋を巡るのが高校の部活帰りの日課だった。
大学受験で茨城まで行く時、母が手渡してくれた文庫本は
アメリカ黒人の先祖を辿るベストセラー「ルーツ」だった。
その本の影響もあってか、自分がここに来るまでの足取り、
昔の人たちの暮らしは、漠然とした興味の1テーマになっているようにも思う。
このところ、全然本を開く気持ちのゆとりがないなぁと
ふと思い、本棚から手にしたのはこれまた読みかけのままの
小林達雄著 「縄文人追跡」
平田先生に、「縄文人は栗など植林していたらしい」,「世知原は遺跡が多い」などの話を聞いた事がきっかけで、ここ数年は縄文人がマイブーム。
なにせ、ここの地区の名前が栗迎だから、何かしら関連はあるんじゃないかと推測している。
この本は、日経新聞のコラム連載をまとめたもので パラパラと読みやすく、今読んでいる 縄文人の乾杯 果実酒の項は 酒飲みならでわの観点と追求心でクスリとなる。
文章に誘われて、ウイスキーのお湯割りを舐めつつ、 ついブログなんか書き始めたらもうこんな時間。 明日も出店。店の工事も切羽詰まってるし、 早く寝なくちゃ。 夜はゆっくり読書など好きな自分の為の時間も欲しいし、 ななこさんや友達と、これからの事など楽しく語りあいたい。 そんな暮らしを一つの目標に、 健康第一で明日もがんばろう。
この本は、日経新聞のコラム連載をまとめたもので パラパラと読みやすく、今読んでいる 縄文人の乾杯 果実酒の項は 酒飲みならでわの観点と追求心でクスリとなる。
文章に誘われて、ウイスキーのお湯割りを舐めつつ、 ついブログなんか書き始めたらもうこんな時間。 明日も出店。店の工事も切羽詰まってるし、 早く寝なくちゃ。 夜はゆっくり読書など好きな自分の為の時間も欲しいし、 ななこさんや友達と、これからの事など楽しく語りあいたい。 そんな暮らしを一つの目標に、 健康第一で明日もがんばろう。